「令和6年(2024年)能登半島地震救援ニュース」No.70
輪島の仮設住宅での孤独死に思うⅢ
1995年の阪神・淡路大震災後の仮設住宅で、亡くなってから約1か月発見できなかったという衝撃的な孤独死があった。約1100戸の仮設の見守りを担っていた「阪神高齢者・障がい者支援ネットワーク」の理事長故黒田裕子(元宝塚市民病院総副婦長)は、この仮設での第1号だった孤独死を受けて、「絶対にこの仮設からは孤独死を出さない」と決意した。以後、スタッフと共に24時間体制で見守り活動を続けた。同ネットワークの設立時の趣意書の災害に次のような宣言がなされていた。
1. 一人暮らしの高齢者を孤独死させない。
2. 高齢者・障害者を寝たきりにさせない。
3. 仮設住宅を住み良い生活の場とすることを目的に、長田地区高齢者・障害者支援ネットワークを阪神高齢者・障害者支援ネットワークへと名実ともに衣替えし、被災市民の救援活動に乗り出す。
黒田が亡くなった後を引継いだスタッフは、あれから30年が経とうとしている今でも、災害復興公営住宅での、見守りと居場所づくりを続けている。
また、2007年の能登半島地震で輪島市内に建設された50戸の仮設住宅で支援員として見守りをしていた被災者のFさんがいた。彼はお母さんと二人暮らしだったが、この50戸の仮設住宅を、毎日朝・昼・夜と全戸の訪問をし、同じ被災者に寄り添ってこられた。
ある時、いつものように見守りをしていて、息子さんと二人暮らしの家庭の玄関の扉を叩き声をかけたが、家の中から応答がなかった。息子さんは仕事に行っているので、「中で倒れているかも…」と心配になり、石を投げて入口のガラス戸を割り、鍵を外して家の中に入った。やはりお母さんは部屋で倒れていた。すぐ救急車を呼び病院へ連れて行った。3時間ほど病院にいて、熱中症と診断を受けた。結果的には大事に至らなかったが、法律的にはプライバシーの保護を無視し、器物破損の罪を犯したことになる。Fさんは「プライバシーといのちとどちらが大事なのか?!」と思い、こうした行動に出た。時にはこうした判断が必要ではないかという事例だ。こんなときに警察あるいは消防という専門家がいつも傍にいたら、適切な判断を仰いだだろう。しかし、福祉や医療はじめその他の専門家では、ほとんどがFさんのような行動を取ることはできないと思う。
仮設住宅での孤独死を受けて、石川県の馳浩知事は「被災者の立場に立って、できることは何でもする、やれることはすぐする。誰一人取り残すことないようにする」と話した。
この決意が空虚なものに終わらないように、絶対に二人目の悲劇を出さないことを肝に銘じてほしい。
(被災地NGO恊働センター 顧問 村井雅清)
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