奥能登地震2023・5被災者支援活動レポート-15

今日のレポートは本レポートNO4でも紹介しました能登瓦の製造販売をされていたO邸です。お父さんは(忠彦さん)、地震後病気をされて金沢の息子さんところで暮らしていたのですが、今回長谷川さんと私とでお伺いするとお伝えしていたので、お父さんが息子さんに連れられて、半年ぶりくらいの里帰りをされていたのです。

久しぶりに実家に帰られて嬉しそうな忠彦さん

息子さんに仲介して貰って、先々代から続いていた「能登瓦の製造販売」について、いろいろ聞かせて頂きました。病後のためか発語に少し障害が残っているようでしたが、先代、先々代の営みの話なので、時には目を輝かせ、興奮するかのようにしっかりお話を聴かせてくれました。中身が濃いので、2回に渡ってレポートさせて頂きます。

息子さんの仲介で話を聴く筆者(黄色のジャンパー)

Oさんところの能登瓦の製造販売は、先々代の音吉さんが大正時代に始められ、二代目新太郎さん(忠彦さんのお父さん)が後を継ぎ、忠彦さんの時代では販売のみの営業だったようです。屋号は「丸一産業(㊀)」で、販売先は富山、新潟(佐渡、柏崎)まで拡げておられたそうです。新太郎さんも販売が主で、製造は忠彦さんの母親の兄と妹が引き継いでいたとのこと。製造工場は、昭和45年~46年に閉じたが、堺町雲津(もづ)など4~5件あったそうです。

土蔵から出てきた貴重な資料見ながら説明される忠彦さん

地震後、このO邸を訪ねた時は、建物は半壊認定だったのですが、その後の調査で大規模半壊になりました(土蔵は全壊判定)。大正時代に音吉さんが建てられた、典型的な伝統木造工法の建築で立派な、趣のある風情を醸し出していました。珠洲独特の伝統建築の街並みの一つを飾っていた重厚な建物でもあります。ただ、もう一つ気がかりだったのが、全壊判定を受けた土蔵の扉が歪み、中に入れなかったのです。能登瓦の製造販売をしていたということを息子さんから聞いていたので、長谷川さんは、「きっとこの蔵には、貴重な、文化財とも言えるものが入っているだろう」と注目されていました。
 今のところ息子さんには、この家を再建するという決断はできていないのですが、長谷川さんのアドバイスもあって、蔵に入れるようになって貴重なものだけは、中から避難させていました。やはり中には商いをされていた当時の伝票類の数々やどこの蔵でも収めているような漆器の食器類や立派な長持ちの数々などがありました。

土蔵にあった兵役資料の入った革袋

特に私が「えっ?」と目が奪われたのは、「新太郎」さんの名前の入った革の行李でした。中には、兵役の時の資料が一杯入っていました。(顧問 村井 雅清)

*なお「奥能登地震2023」の活動は、公益社団法人Civic Forceとのパートナー協働事業として実施します。  

■活動支援金のご協力をお願い致します。
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 名義:ヒサイチNGOキョウドウセンター
*お手数ですが、備考欄に「奥能登地震2023」と記入して下さい。


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