東日本大震災】レポートNo.264

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月11日
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 今日3月11日で、東日本大震災から5年の月日が流れました。久しぶりに岩手の被災地に足を運び、着いて早々悲しい事件のニュースが飛び込んできました。釜石市の仮設住宅で80代の女性が衰弱死し、一緒に暮らしていた息子も発見時意識はあったが衰弱して動けなかったそうです。3月9日の岩手日報によると「住民によるとアサ子さんは自治会のお茶っこなどで見かけることがあったが、昨夏以降姿を見せなくなった。息子は自治会役員を務めていたが、自治会が事実上休止状態になった1年前から引きこもりがちになった」と報道されています。また同じ日に大船渡市では、県が採用派遣した職員が仮設住宅で自殺のような死を遂げたというニュースがありました。この二人の死は防ぐことはできなかったのでしょうか??こうして、“救えるはずのいのち”が一人、また一人と喪われて行くことに、絶望感すら抱きます。
 長期化する復興の過程で、仮設住宅での生活が10年に及ぶという厳しい現実も突きつけられています。みなさん、もし自分だったら10年間仮設住宅などで暮らさなくてはならない状況をどう感じますか? しかも必死の思いで5年間耐えて来たのですよ!もう言葉を失います。
 そんな状況のなかで、5年を迎えたまけないぞうの作り手さんのところへお邪魔しました。
旦那さんを津波で亡くした陸前高田の作り手さんは、5年前に仮設住宅で出会いました。
陸前高田市で震災の年、まだ仮設の集会所もない中で、ボランティアさんとテントや椅子、机を運んで真夏の炎天下の中、まけないぞうづくりをしました。その時に旦那さんが津波に流され、まるで生気を失ったかのような、Kさんがはじめて作ったピンク色のまけないぞうに5年ぶりに再会しました。涙がこぼれそうなほどうれしかったです。5年間もの間、Kさんに寄り添ってくれていたピンク色のまけないぞうです!当時の彼女のメッセージです「東日本大震災 忘れもできない3月11日2時46分今までにない長い地震、大きい津波 水を飲まされて流された1人です。助けられて生き、いまは仮設生活です。ある日、『お茶飲み会に 来てね』と声をかけられ行ったとき、ピンク色のぞうさんです。とてもかわいい眼をしてリボンをつけていました。何十年前に持った針を持って、先生に教えて 頂き始めました。夢中になり考えることなく作ったのがぞうさんです(主人は死亡)一人生活でも作っている時は楽しいです。上手には出来ないがまけないぞうです」。
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今は自力再建してまけないぞうを作り続けています。当時は「どうしていま私は仮設でぞうさん作っているんだろう」と言われ言葉を失ったこともありました。いまでは、なんとか元気そうにしていますが、やはり「3月11日」が近づくと津波の夢を見るそうです。そして、部屋の出入り口には旦那さんとお孫さんと一緒に移っている写真が飾られています。よく聞くと、「こうして写真を張っておけば、いつか帰って来そうな気がするの。これがあるから生きていられる」と涙ながらに話してくれました。その陰で、津波にあっていない人からは、「いつまでそんなこと言ってんだ」と心ない言葉も浴びせられることがあるそうです。そして「このまけないぞうがなかったらどうなってたか・・・」と。5年という歳月は被災者一人ひとり違うということを痛感させられました。心の復興もそれぞれです。そして中長期のボランティアが激減する中で、冒頭のような悲しい死を防ぐためにも、一人ひとりの被災者に寄り添えるようなボランティアの確保であったり、地域住民の支え合いは欠かせません。私には、今日は多くの涙が被災地を濡らしているように見えます・・・・。
旦那さん写真_s.JPG
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