【東日本大震災】レポートNo.267

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月14日
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 被災地では3.11前後はみなさん心が揺れています。もうすでに5年が経過し、被災地の様子は様変わりしています。盛り土が進み、道路がこれまでとは違ったり、行くたびに昔の面影はなくなり、思い出すことも難しいようなまちづくりの整備が行われています。果たしてこれでいいのでしょうか??
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 そんな中で、3.11が間近になると子どもたちの心も揺れます。あの小さな体であんな大きな津波のことをどう受け止めればいいのでしょうか?東京に避難した子どもたちは、3.11が近づくと津波の夢を毎日みるようになるそうです。東京では津波の話もあまりないし、痛みの共有ができないようです。3月11日だけは学校を休んで、家族と祈りの日にしたいと訴えている子もいます。でも3月11日まで気持ちが持たずに、ほぼそれまでの一週間学校を休んだそうです。
 また、当時小学生の孫と津波の後に再会し、無事を確認した後で、その子をその場に残して別の場所へ移動したという人がいました。もちろんそれはやむをえずとった行動でした。けれど、その子は「なんで置いて行かれたのだろう?」とずっと気にしていて、数年後やっとそのことをおじいちゃんに確認し、二人は夜枕を並べながら朝まで当日のことを語り合ったそうです。
 こうして、県外で避難生活をしている子どもたちも心にたくさんの傷を残しながら、生活しています。そして、「3.11」のその日が来るたびにあの日と向き合い、一日、一年心に折り合いをつけていくのでしょう。私たちにできることは、そっと見守るしかできません。被災地にはそんな子どもたちがたくさんいます。子どもに対する心のケアは長期的に必要です。「阪神・淡路大震災では3~4年後にピークを迎えたとの指摘もある。心に深い傷を残すトラウマを放置しておくと症状が悪化し長期的なうつやひきこもりにつながるケースもある」(毎日新聞2016/3/13)と指摘しています。子どもたちが思いっきり外を駆け回り、遊ぶことができるのはいつになるのでしょう。。。。
 
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東日本大震災】レポートNo.266

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月13日
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 いつものようにまけないぞうの回収に行くと、たわいのない話に花が咲きます。ある作り手さんは毎日「こうして今日も一日無事に過ごせた」と感謝の気持ちを込めてお祈りするそうです。そんな話をしているうちに、「あの時は本当に地獄だった。この5年間ぞうさんがなかったら、どうしていたかな。ぞうさんに癒されてここまで5年間やってきたのよ。津波のお陰とは言えないけれど、それでみなさんとこうして出会えたことは感謝しています。」と涙ながらに話してくれました。彼女に最初に会ったのは、震災の年の5月頃で「お父さん(旦那さん)は津波で流されたけれど、うちはまだましよ。すぐに遺体も見つかったし、まだ見つかっていない人もいるから」という言葉を聞いたのが衝撃でした。息子さんも流されているのですが、いまだにまだ息子さんのお話は本人の口から聴いていません。
どんな気持ちでこの5年間過ごしてきたのかと思うと私も涙がこぼれました。
 そして、今年やっとこの5月に復興住宅が完成し、仮設から引っ越す予定です。彼女は仮設で仲の良い3人のぞうさんチームの一人でしたが、他のみなさんが先に自力再建や復興住宅に移ってしまい、不安な日々もありました。1年前に彼女が話してくれたつぶやきです。当時のレポートを一部抜粋して紹介させて頂きます。
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「私、最近鬱かしらと思うの…」と涙をこぼしながら話し出しました。「全て失い、忘れることは絶対できないけれど、こんな辛いことがあったお陰でみなさんにこうして出会い、ぞうさんも作ることができたのよ。過去は変わらないから、前を向いて歩くしかない」と心の底から振り絞って言葉を発していました。取り残されていく孤独感、寂しさをこう話すことで、何とかぎりぎりのところで踏ん張って、いまを生きているように感じてなりませんでした。
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 また、別の作り手さんも高台の造成が今年の夏頃には終わる予定で、来年のお正月には新居で過ごせる予定だそうです。彼女は「孫3人で川の字になって寝るのが夢」と話してくれました。仮設の狭い部屋ではそれがかなわず、孫たちが帰るときにいつも泣くそうです。それが辛くて辛くて5年間も我慢してきたそうです。
一年前の彼女のつぶやきです。
「あの日から4年、復興も思うように進まず、家族が思いもよらない病気をし、気持ちがしずみがちになり、なにもしない日が続いた時、自分がしっかりしないとと思い、ためしにぞうさんを作ってみました。一つまた一つ、そのたびに気持ちが楽になり、がんばれそうな気がしました。本当まけないぞうさんありがとう!」
そして5年経ったいま彼女は「やっと希望が出てきた。故郷に帰るって決めたから、あとは前だけ向いていくしかない」と。その言葉に覚悟を感じました。
「家ができたら、お茶のみでもしましょう」という彼女の希望に満ちた笑顔が晴れ晴れしくもありました。
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 厳しい冬を乗り越え、少しずつ被災者の方たちにも春の足跡が聞こえています。

東日本大震災】レポートNo.265

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月12日
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東日本大震災から5年目を迎えた昨日3月11日は、朝から雪が舞っていました。ある被災者の方が、「亡くなった方の魂が舞い降りてきたのでしょう。だから私は大丈夫忘れてないよ」心の中でつぶやいた途端に晴れ間が広がったそうです。そのような朝を迎え、各地で祈りが捧げられました。
 釜石市の復興住宅の公民館では、被災住民の有志の方が手作りの追悼行事を行っていました。同じ仮設にいた仲間同士、また新しくつながった復興住宅の被災者の人、それを支える被災者の人、みなさんそれぞれの立場で、想いでその場に集まっていました。「追悼式にはなぜか行く気になれなくて、ここに来たの、来てよかった。やっぱり仮設の頃のつながりはいい。今の復興住宅では何もしないもの。」と
 室内には仮設のころのイベントの写真が所狭しと並べられ、みなさん懐かしそうにその写真をみながら、思い出話に話がはずみます。
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 午後2時46分、海の方を向いて、サイレンが鳴り響く被災地で祈りが捧げられました。会場にはみなさんが折った想いが込められた鶴が飾られていました。
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 この追悼式を呼びかけたご夫妻の奥さんは、津波の後にお母さんを失くされています。いまでもそのお母さんの言葉を思い出すそうです。「生きるのは、辛いよ」と。そのお母さんが言った言葉がいつまでも心に残り、仮設や復興住宅で暮らすおばあちゃんたちと母親が重なりほっておけないそうです。少しずつですが、地域の支え合いの芽が育ってきています。この大切な芽が大きくなって、支え合いの街ができたらきっと未来の子どもたちにもつながっていくことでしょう。
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 まけないぞうの作り手さんが、「昔の書類を整理していたら、本当にたくさんの人に支えられたと思ったのよ。これからは少しずつ返していきたい」と話してくれました。そういえば茨城県常総市の被災者の方も「今度どこかで何かあったら、年寄りだけど応援に行く」と言ってくれていました。その前の広島土砂災害の被災者の方は、常総の水害後すぐにたくさんの支援金を下さいました。「被災された方の気持ちがわかるから」と。こうして被災地から被災地へと支え合いの輪が広がっています。
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東日本大震災】レポートNo.264

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月11日
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 今日3月11日で、東日本大震災から5年の月日が流れました。久しぶりに岩手の被災地に足を運び、着いて早々悲しい事件のニュースが飛び込んできました。釜石市の仮設住宅で80代の女性が衰弱死し、一緒に暮らしていた息子も発見時意識はあったが衰弱して動けなかったそうです。3月9日の岩手日報によると「住民によるとアサ子さんは自治会のお茶っこなどで見かけることがあったが、昨夏以降姿を見せなくなった。息子は自治会役員を務めていたが、自治会が事実上休止状態になった1年前から引きこもりがちになった」と報道されています。また同じ日に大船渡市では、県が採用派遣した職員が仮設住宅で自殺のような死を遂げたというニュースがありました。この二人の死は防ぐことはできなかったのでしょうか??こうして、“救えるはずのいのち”が一人、また一人と喪われて行くことに、絶望感すら抱きます。
 長期化する復興の過程で、仮設住宅での生活が10年に及ぶという厳しい現実も突きつけられています。みなさん、もし自分だったら10年間仮設住宅などで暮らさなくてはならない状況をどう感じますか? しかも必死の思いで5年間耐えて来たのですよ!もう言葉を失います。
 そんな状況のなかで、5年を迎えたまけないぞうの作り手さんのところへお邪魔しました。
旦那さんを津波で亡くした陸前高田の作り手さんは、5年前に仮設住宅で出会いました。
陸前高田市で震災の年、まだ仮設の集会所もない中で、ボランティアさんとテントや椅子、机を運んで真夏の炎天下の中、まけないぞうづくりをしました。その時に旦那さんが津波に流され、まるで生気を失ったかのような、Kさんがはじめて作ったピンク色のまけないぞうに5年ぶりに再会しました。涙がこぼれそうなほどうれしかったです。5年間もの間、Kさんに寄り添ってくれていたピンク色のまけないぞうです!当時の彼女のメッセージです「東日本大震災 忘れもできない3月11日2時46分今までにない長い地震、大きい津波 水を飲まされて流された1人です。助けられて生き、いまは仮設生活です。ある日、『お茶飲み会に 来てね』と声をかけられ行ったとき、ピンク色のぞうさんです。とてもかわいい眼をしてリボンをつけていました。何十年前に持った針を持って、先生に教えて 頂き始めました。夢中になり考えることなく作ったのがぞうさんです(主人は死亡)一人生活でも作っている時は楽しいです。上手には出来ないがまけないぞうです」。
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今は自力再建してまけないぞうを作り続けています。当時は「どうしていま私は仮設でぞうさん作っているんだろう」と言われ言葉を失ったこともありました。いまでは、なんとか元気そうにしていますが、やはり「3月11日」が近づくと津波の夢を見るそうです。そして、部屋の出入り口には旦那さんとお孫さんと一緒に移っている写真が飾られています。よく聞くと、「こうして写真を張っておけば、いつか帰って来そうな気がするの。これがあるから生きていられる」と涙ながらに話してくれました。その陰で、津波にあっていない人からは、「いつまでそんなこと言ってんだ」と心ない言葉も浴びせられることがあるそうです。そして「このまけないぞうがなかったらどうなってたか・・・」と。5年という歳月は被災者一人ひとり違うということを痛感させられました。心の復興もそれぞれです。そして中長期のボランティアが激減する中で、冒頭のような悲しい死を防ぐためにも、一人ひとりの被災者に寄り添えるようなボランティアの確保であったり、地域住民の支え合いは欠かせません。私には、今日は多くの涙が被災地を濡らしているように見えます・・・・。
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