6月に、再び岩手県に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 6月
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毎日のドライブも緑に包まれた風景のなかをひた走り、とても心地よいです。今日は大船渡方面にお邪魔しました。
災害復興住宅へ移った人たちの暮らしはどうでしょうか?この3月に復興住宅へ転居したぞうさんチームに大船渡まで会いに行きました。田園風景に突如現れた近代的なつくりのマンション。なんだかとても違和感があります。
この日は4人のメンバーが久しぶりの再会です。4人のうち2人は自力再建、あとの2人が復興住宅へ入居されました。立地もとても近いのですが、仮設から引っ越して以来3ヶ月ぶりの再会だそうです。やはり仮設と違って、行き来が格段と少なくなります。でも今日は久しぶりの再会に大笑いです。Makenaizoneのみなさまからのお手紙もお届けしました。お一人の方は高血圧でお漬物を控えるようにお医者さんから言われているのですが、「やっぱりお漬物がないとね~」とパクパク。お友達が心配して、「食べすぎだよ!」と注意すると、「大丈夫!先生に聞かれたら『食べてない!』っていうから」と。(大爆笑)「みんなに久しぶりに会えて楽しいね。こうやってみんなで一緒に食べるとおいしいよ」と笑いが止まりません。集会所はあまり使われていないようで、何かきっかけがあるとみんな集まれるんだろうな…。
~まけないぞう一言メッセージ~
増島さんが、3月にお出での時「私たちは災害公営住宅に移りますけど、続けますか」と言ったら「はい行きますよ」と事もなげに、当然のごとくに。阪神・淡路大震災の大震災から20年、東日本大震災から4年、未来へ伝えていくべく行動のひとつと思い、増島さんたちが来て下さるうちは続けようと思う。あと何年続けられるか(年齢的に)未来へのタスキを渡すために、何故なら私たちは当事者なのだから。
(2015年6月15日 86歳女性 大船渡市綾里)
【東日本大震災】レポートNo.258
6月に、再び岩手県に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 6月7日
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この日は快晴の中、いつもお世話になっている釜石の不動寺さんへ高田の作り手さんとお邪魔しました。新緑が眩しいくらいに美しいこの季節の沿岸までのドライブは最高です。
作り手さんのお一人は年明け早々、仮設の部屋のなかで転倒して肩にヒビが入りしました。地元の病院では対応できないということで、娘さんのいる東京の病院で手術をしました。けれど、検査をしたり、1000人も患者さんが手術を待っていて、こちらに戻るまでになんと4ヵ月もかかってしまいました。大の仲良しのお二人は久しぶりの再会にとても喜んでおられました。作り手さんは「やっぱ田舎はいい!都会のマンションの部屋は鍵かけて、外にも出られず、まるで牢屋だった」と生まれ育ったところが本当に愛おしいように話してくれました。彼女はかさ上げするもとの土地に自力再建をしようと、ずっと仮設で暮らしています。
相方の作り手さんは、少し年上ですが、避難所からずっと一緒に過ごしていた人がいなくなり、いつも電話をかけてたりしていて、とても寂しい時間を過ごしていました。機会があって東京に行くことになり、わざわざ怪我したお友達に会いに行ったそうです。彼女は「東京まで会いに行ったんだから、ほんと寂しかった、帰って来てくれてほんとよかった」ととても喜んでいました。そして、彼女はこの秋ごろにできる復興住宅へ入居する予定です。
そうなると、立地は近いのですが、お二人が自分の都合で頻繁に会うことはできるなくなります。それが寂しい限りです。彼女は「復興住宅なんか入ったら、もう部屋からでないよ」と。マンションという住まい方は、沿岸の人たちにはやはり合わない気がします。
そうこうするうちに、釜石のお寺に到着しました。まずは、お参りを。。。
中にお邪魔すると、なんと可愛らしいぞうさんたちがお出迎えです。なんと娘さんが手作りで作ってくれたそうです。
お二人とも、お寺さんに久しぶりに来れて、とてもうれしそうです。いつも物資やタオルをご寄付いただき、「まけないぞう」の販促にも力を入れてくれています。副住職さん手作りのお昼をごちそうになりました。そして、今回高野山開創1200年という年にあたり、高野山真言宗の本山(和歌山県)の金剛峯寺において、「まけないぞう」を販売してくれました。そのお便りをみて、「これなら帰って家族に自慢できるな!」と嬉しそうにお便りを読んでいました。いつか高野山に訪れたいと二人の夢は膨らみます。
帰り際には、なんと境内に流れる清水のほとりに、「みず」、「しどけ」という岩手ならではの山菜を収穫。ボランティアさんに手を引かれながら、大の仲良しさんに退院祝いにと夢中で採ってくれました。
久しぶりの再会に話も弾み、とても清々しい一日を過ごしました。今日も一日感謝です。
~まけないぞう一言メッセージ~
今年で震災から4年が過ぎました。まだまだ高台移転が決まらなく仮設で生活しています。震災直後に「まけないぞう」さんに会えて、心の支えに毎日頑張って作っています。全国の皆様に喜びをと思い、自分も癒してもらいながら生活しています。これからもよろしくお願いします。
(2015年6月15日 女性 大船渡市赤崎)
【東日本大震災】レポートNo.257
6月に、再び岩手県に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 6月6日
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久しぶりの被災地訪問ですが、明暗がわかれているそんな感じです。復興住宅に入居が決まっている人や自力再建を果たした人、いまだ仮設に残される人など、不安でいっぱいです。海では堤防が、陸地では造成が進む街並みを横目に、釜石の作り手さん訪問です。
この日は、遠野の「まけないぞう」応援団のリーダーさんと、足湯ボランティアをしていた折り紙のお二人の先生をお連れして、「まけないぞう」とつるしびなと折り紙のコラボでした。
3月以来の訪問でしたが、待ちに待った復興住宅が完成していました。明るくきれいな建物は海を見渡す高台に建築されました。ここは以前、小学校で津波の当時は被災者の方が避難していた場所です。そこを取り壊し、戸建ての災害復興住宅を建設したのです。そこにはなんと仮設時代にボランティアさんに作ってもらったベランダもお引越ししていました。かなりのお気に入りです。1枚目の写真は仮設のときに完成したものです。2枚目は現在の復興住宅です。
お部屋に入ると広々としていて、真新しいお部屋が広がります。やっと落ち着いたようです。海を見下ろせる寝室に、広いキッチンでこれなら得意のお魚さばきもできます。お風呂もフラットで段差も低く作られていました。そして、大好きな子ぞうちゃんもしっかり見守ってくれていますよ。
そして、makenaizoneのみなさんからのお手紙を持参すると、「まぁ~だ、みんな応援してくれるんだね。お手紙は孫や誰かが来た時にみせんだよ」と笑顔で喜んでファイルにきれいにしまってくれました。そして、今度はお孫さんの写真やら、津波に流されてしまった大事なご自分の結婚式の写真を「親せきが持って来てくれたんだよ」と見せてくれました。
そして、いよいよつるしびなづくりスタートです。先生に教わりながらお二人とも黙々と時間も経つのを忘れてせっせとチクチク針を運んでいます。津波からお二人はとても仲が良く親子のように、避難所の時からいつも一緒です。
あっという間にお昼の時間です。ごちそうを用意してくれていました。今はウニのシーズンということもあり、ウニやらホヤの炊き込みごはん、郷土料理のザクザク煮(煮物)など机狭しとごちそうが並びます。「みんなで食べるとおいしいね~」と80代には見えない食べっぷりにびっくりしながらも、みんなでおいしく頂きました。
そして、午後にはつるしびなの「さるぽっぽ」と傘もきれいに完成しました。
ふと気づいたら、いつも先の見えない不安からなのかは避難所の時の大変さ、辛さを何度も話していましたが、今日はなかった。やっと落ち着ける我が家になって少し気持ちが安定したのかな・・・。そう信じたい。
~まけないぞう一言メッセージ~
あの日から4年も過ぎました。まだ時々信じられない気がします。夢をみるのはいつもなつかしい家での生活です。復興もまだまだですが、全国の皆様方のご支援を頂き生活も少しずつですが落ち着いてきました。またぞうさんに出会って2年も過ぎ作るたびに表情の違うぞうさんが出来上がるのが楽しみです。そして、このぞうさんはどこに旅するのかと思うと夢が広がってきます。これからもがんばりますので、よろしくお願いします。
(2015年3月 女性 釜石市鵜住居)
【東日本大震災】レポートNo.256
6月に、再び岩手県に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり
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戦後70年を迎えた今年、戦争の悲惨さを振り返り、被爆国として2度と同じ過ちを繰り返さないような社会づくりをしなければならないはずが、きな臭い政権与党の動向に危機感を覚えます。最近、報道でよく目にするのは、「安全保障法案」「集団的自衛権」「憲法9条」「違憲」「合憲」などの言葉です。
いつも「まけないぞう」でお邪魔している岩手県釜石市は、日本製鐡株式会社(当時)(現在は新日鐡住金釜石製鉄所)があり、1945年に日本本土初の米海軍による艦砲射撃を受けました。製鉄所があったので、原爆の投下される候補地にもなっていたそうです。お年寄りの方は、特に艦砲射撃を受けた夏が近づくと、当時の話をする人が多くなります。また2回目の艦砲射撃があった8月9日午前11時02分には町中にサイレンが響き渡り、「今日は長崎原爆投下の日ということで、黙祷を捧げましょう」と、黙祷を捧げています。
「まけないぞう」の作り手さんの多くは70代、80代といった戦前・戦後を過ごした方が多くいます。ある作り手さんは釜石市が艦砲射撃を受けて大変だったことを話してくれました。終戦を迎えた時は小学6年生で、戦争で大変な思いをした人たちから聞いたことを伝えてくれました。「戦争に行った人から聞いたけれど、自分の刀が切れるかどうか、敵地の女性の上半身の服を剥ぎ取り、乳房を切っていった」というのです。居合わせた兵士の方が「本当に酷かった。俺たちはそんなことをしに行ったんじゃない。」と聞かされたそうで、「戦後70年を迎えた今伝える人も亡くなっていき、私たちが聞いたことを伝えないとね」と話してくれました。けれど、中には当時の話をしていると具合が悪くなり、夜も寝れなくなる作り手さんもいます。戦後70年経った今も戦争は続いているのです。
また、別の地域の作り手さんも「津波は一日で終わるけれど、戦争は毎日だ。津波に遭っても食べ物も服もある。戦争は銭っこ出しても、食べるものも買われない」と話してくれました。津波でも相当な苦労をしていると想像しますが、それ以上に戦争は大変悲惨なことなんだと作り手さんからの話を聞いてその行間に含まれる言葉の重さを実感しました。貴重なお話を聞かせて頂いたことに感謝します。
そして、現政権の安全保障関連の審議を拙速に進めようとしていることに憤りを覚えるとともに、与党の参考人から「違憲」だと指摘を受けてまでも、自民党の高村副総裁は「学者の言う通りにしたら平和が保たれたか」などと発言する始末です。ここまで民意を無視している人たちに被災地の復興や福島第一原発の収束などできるはずがありません。5年目を迎えた被災地でどれだけ不安を抱えている人がいるのか、きちんと真摯に耳を傾け、対応するべきです。
~まけないぞう一言メッセージ~
もう4年ですってね。私そのうち何をしてたかしら…。でもね、津波をかぶったアヤメとマーガレットと菊、これらは港町から掘り出してきて、去年から花をつけてくれるんです。毎日水やりをして、私も元気です。私たちのほかにも災害は色々起きます。心の痛むことばかりね。でも命ある限り頑張ります。ぞうさんに慰められながら…。
(2015年6月3日 女性 釜石市)
【東日本大震災】レポートNo.255
6月に、再び岩手県に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 6月4日
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2ヶ月ぶりに訪れた遠野は新緑に包まれ、爽やかな風が吹き抜けて、田んぼには稲が風にそよいでいました。いつもながら四季の素晴らしさを実感し、自然に感謝する日々です。
5年目を迎えた被災地では、少し、いやだいぶ不安が被災者の心を覆っていました。仮設住宅は場所によってはほぼ空き家状態となり、半分がすでに復興住宅や自力再建などを果たし仮設を出てっていました。久しぶりに訪問した作り手さんは、「私、最近鬱かしらと思うの…」と涙をこぼしながら話し出しました。「全て失い、忘れることは絶対できないけれど、こんな辛いことがあったお陰でみなさんにこうして出会い、ぞうさんも作ることができたのよ。過去は変わらないから、前を向いて歩くしかない」と心の底から振り絞って言葉を発していました。取り残されていく孤独感、寂しさをこう話すことで、何とかぎりぎりのところで踏ん張って、いまを生きているように感じてなりませんでした。
この作り手さんは津波で旦那さんと息子さんを亡くされました。旦那さんのお話はしてくれますが、息子さんのお話はいまだ聞いたことはありません。彼女の悲しみの深さは想像をはるかに超えるのでしょう。ただただ黙って話を聞く以外になすすべもありません。
彼女のつぶやきを紹介します。
「月日の流れの早いこと。あれから4年の歳月が過ぎ忘れ去られていくような感もしないではない昨今。震災にあった私どもはまだまだ昨日のことのように思い出されます。『まけないぞう』のお陰様で心が癒され、一針一針心をこめて縫い続けております。」
こうして、少しでもまけないぞうが被災者の方に寄り添い、心を癒してくれています。最近は、販売が滞っています。ぜひ、またみなさまご協力ください。