【東日本大震災】レポートNo.273

あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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 今回の台風10号は岩手県の沿岸に甚大な被害をもたらしました。2011年の津波からやっと立ち上がりかけた被災者に追い打ちをかけました。犠牲になられた方々に心からお悔やみ申し上げます。また被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
これまでの被災地から、新たな被災地に支え合いの輪が各地で生まれています。ただ、一方でそれぞれの教訓がいかされずに、被災地に行くたびに「まさか自分のところにこんな災害が起きるなんて」という言葉を必ず毎回被災地で聞いてきました。
東日本の被災地でも同じです。「まさかこんな津波がくるなんて」、今回の台風では「まさかこんな水害があるなんて」という言葉です。残念でしかたありません。
今回の8月に岩手を訪れた時は、熊本地震の後だったこともあり、東北の被災者の人は熊本の人たちのことをとても心配していました。「私たちは、津波ですべてを流されたから、あきらめがつくけど、熊本の人は大変でしょうね」、「津波は高いところへ逃げたらいいけど、地震は逃げるところがないから、心配」、「みんな、いまどうやって生活しているの?」などみなさん心配してくれています。
そして作り手さんを訪ねたところ、お孫さんのお宅にいました。そこで「まけないぞう」でコツコツためたお金でプレゼントしたお孫さんの机を初めて拝見することができました。
とても立派な机です。その横にはなんと、くまモンのカバーがかけられたランドセルがありました。机にも感動しましたが、そのそばに熊本の人気キャラクターがあって、なんかご縁を感じます。
 そして、お孫さんのベッドの傍らには「まけないぞう」が飾ってあります。ほこりをかぶらないようにビニールで完全防御です(笑)こうして、両被災地のグッズに囲まれうれしくなり、記念にパチリ!
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 お家の中には大きなぞうさんも飾られています。いつもなかの良いご夫婦でハイポーズ!
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 ところで、久しぶりに市内を見て回りました。5年を迎え町の全景が少しずつ見えてきました。津波の直後から見ていますが、区画がだいぶできてきました。
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 どんな被災地でも元の場所に戻る人、戻らない人、避難先で新たな生活を選んだ人、戻りたいけど戻れない人いろんな人たちがいると思います。それでもふるさとを想う気持ちは変わらないでしょう。災害によりふるさとを奪われてしまう人もたくさんいます。生かされたいのちを大切に生きていきたいものです。
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 短い夏を終え、まもなく東北は秋を迎えます。
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【東日本大震災】レポートNo.272

あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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 今日30日で東日本大震災から2000日を迎えました。河北新報(2016/08/30)では「東日本大震災の発生から2000日目を迎えた30日、東北の被災地では復興への取り組みが続いている。そのスピードは、地域によって大きく異なる現実がある。」と伝えています。
仮設の集会所では、遠野の「ふきのとうの会」のみなさんがつるしびなの講習会を定期的に開催しています。みんなの笑い声が夏の暑さを吹き飛ばします。「ふきのとうの会」のみなさんは「3.11」の震災の直後から、「まけないぞう」の作り方を沿岸の被災者の人たちに伝えてくれて、いまでも3カ所の仮設でつるしびなの指導に行っています。5年経ったいまでも継続的に活動を続けている貴重な団体のひとつです。
 今回は「押絵(おしえ)」というもので、舞妓さんをモチーフにした作品です。これらの作品はひな祭りのときに、遠野で展示・公開されます。これまでの間にも多くの作品が生まれています。
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 みなさんつるしびなを作るのを楽しみにしています。
 仮設にそのまま残る人、仮設から引っ越した人、津波後に別の街に引っ越した人、これから引っ越す人など復興への道はそれぞれ違いますが、みなさんそれぞれのそのことを受け止めています。そのメンバーの中の人には「ここの仮設に入って本当によかった。こうしてみんなと仲良くできて、手芸もできたし、ここじゃなければこんなふうにできなかった」と。もうすぐ仮設からの卒業して復興住宅に引っ越すのですが、引っ越ししても毎月つるしびなの日には、仮設の集会所にくるそうです。こうして、少しでもコミュニティの維持ができれば、離れても寂しくなかったり、孤独を感じることも少ないと思います。
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 復興住宅での新しいコミュニティづくりが課題となっているいま、また改めて被災地に目を向けてほしいものです。
~訂正とお詫び~
2014年7・8月豪雨災害レポートNO.50の中で、「広島の被災地を歩いてみると、流れたお墓の救出などに関わった現場では、お墓の区画ができあがり、新しくなったお墓が目立ち、観音様が建立されていました。」の中の観音様はもともとあったもので、観音様の台座の碑文が新しく刻まれていました、というのが正確でした。
NO.51で「法要を行ったのは、広島密教青年会の有志の方たちです。」とお伝えしましたが、ただしくは「高野山真言宗広島青年教師会」でした。合わせて訂正してお詫びいたします。

【東日本大震災】レポートNo.271

あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  7月30日
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 沿岸では、国土強靭化の名の元ハード面の復旧が粛々と進んでいます。復興予算として計上された総額は5兆6328億円です。執行しているのは2015年度で65%とされています。たまたま地元紙を見ていたところその横の記事には公的年金の積立金を運用し、その総額が5兆3098億円だったと伝えられていました。一体この国はどうなっているでしょうか?
 沿岸を車で走ると、高い防潮堤が要塞のごとく街を取り囲み、住宅よりも高く、その近くにいくと到底海などは見えません。山は削られ、生態系が崩れ、山津波を心配する人々。「こんなはずじゃなかった」という声も聞こえてきます。前に「壊すのは簡単だけれど、植物が育つには何年もかかるんだよ」ということを言われたのが心をよぎります。
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 「復興道路」も整備が進みます。リアス式の三陸沿岸には復興道路として三陸縦貫道の建設が各地で進んでいます。いままでだったら立ち寄っていた道の駅も縦貫道が整備されることで通り過ぎてしまうケースが見受けられます。大船渡にある国道45号沿いの「道の駅さんりく」もその一つです。これまでは、売り上げも好調ということでしたが、「同道の駅は、吉浜道路開通の影響などで昨年度の売上高(三陸直売組合の受託販売分を除く)が約2億4300万円(前年度比94・6%)、物産センター部分の来館者数は過去10年間で最少の16万9707人(同約2万人減)と落ち込んだ。」(岩手日報2016/08/19)と伝えています。こうした売り上げの減少は直接被災者の収入にも影響します。直売組合員の人たちは津波の被災者です。収入が維持できなければ生活を圧迫することになります。「復興」という名の道路が、被災者の人たちの生活を圧迫して本来の「復興」の意味とは違います。
 よく被災地でいわれるのが「ショック・ドクトリン=惨事便乗型資本主義」というものです。被災地に大型の資本がはいり、地元の中小零細企業がこれまでの通りの生活がいきゆかなくなるのです。一方で、そのくらいでダメになるならしょうがない、もっと競争力を持って商売をしないといけないんだと指摘する人もいます。これまでの通り食べていくに困らない程度に仕事を生きがいとしてきた人の生業を奪っていくことが復興なのでしょうか?住民の十分な合意形成もないまま、外部の大手資本を誘導し、それに負けないようにしないといけないというのは、強引だと思います。復興住宅にコミュニティづくりとしてテナントを用意してもテナント料が高くて空き店舗になったりと、一体だれのための何のための「復興」なのでしょうか?そこに生活するのは被災当事者である地元の住民です。その人たちが主人公なのです。
 毎回感じてはいるのですが、年を追うごとに、沿岸の変わり果てた姿をみて、まざまざと人間の傲慢さを感じ、強い憤りを覚えました。             
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【東日本大震災】レポートNo.270

被災地NGO協働センターです。
あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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 東北も梅雨明けです。梅雨の肌寒さが嘘のように、夏の暑い日差しが照り付けています。
それでも、東北の夏は涼しく風は爽やかです。緑が深く、青い空、夕焼け、星空と何度来ても自然の豊かさを感じさせてくれます。こんな自然をいつまでも大切にしたいものですね。
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 久しぶりに伺った作り手さんは1ヶ月前に仮設から災害復興住宅に引っ越しをされていました。海辺から山奥に仮設が建てられ、「奥に引っ込んでたの」とみなさんに話しながら、部屋のドアはガラス張りで明るく、開放感があり、海風が心地よく通っていきます。
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作り手さんも「ここはいいのよ~、風が仮設とは違うのでしょ??涼しいのよ。ここはお友だちもたくさんいるし、お寺さんも近くて、窓から見えるのよ。だから毎朝、お寺の鐘とともにお部屋から手を合わせるの。」と仮設にいた頃より、とても明るく笑顔が素敵でした。「毎日お友だちとお茶のみしながら、おしゃべりして、忙しいのよ~。」と本当にうれしそうに話してくれます。
 住み慣れた場所に戻るというのは、これほどまでに人を変えるということを目の当たりにしました。
 そして、近くに住むお友だちが「ぜひ、まけないぞうを作りたい」ということで、久しぶりにぞうさん講習会です。ふと思い出したのが、この災害復興住宅が建った場所は、震災の時、避難所になっていた体育館だったところなのです。
 また、そこで偶然にもまけないぞうの講習ができるなんて、とてもうれしいような懐かしいような気がしました。当時はこんな様子でした。ロイター通信記者の我謝京子さんがmakenaizoneの主宰青木先生と取材に来てくれたところです。
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 「そうだね~懐かしいね~」と話を弾ませながらチクチクとぞうさんが出来上がっていきます。
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それぞれの復興への道を歩みつつあります。

【東日本大震災】レポートNo.269

被災地NGO協働センターです。
あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  
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 久しぶりの作り手さんとの再会はとても嬉しいものです。みなさんにご支援頂きました“まけないぞう号2代目”が緑の中を走り抜け、作り手さんのところへお伺いしました。これもひとえに「まけないぞう」を応援してくださるみなさまのお陰です。ありがとうございました。作り手さんにそのことをお伝えすると「え~ほんとに??私も寄付しようか??」とうれしい言葉を頂きました。そんな風にみなさんが「まけないぞう」のことを想って下さっていて本当に「まけないぞう」は幸せものです。あらためてお礼を申し上げます。
そして、makenaizoneのみなさんが届けてくれたぞうさんのお手紙を作り手さんにお渡ししました。「わぁうれしいね~」「私のぞうさんはどこの国へ行くんだろうね」「ぞうさん活躍してるね」ととても喜んでくれました。
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 さて5年が過ぎ、やっと仮設を出て新たな暮らしがはじまった人もいます。「私はやっと先が見えてきて、これからはよくなる一方です。だから、熊本の人のことを考えるとこれから大変だろうから、私はそろそろ卒業して、今度は熊本の人に必要な人がいればぞうさんをしてもらいたい。私も仮設に来た時は、知らない人ばかり、コミュニティが大変だった。それで一人になって部屋にこもりたいこともありました。そんな時に部屋のなかで何もしないでぽーっとしているより、まけないぞうがあってとても助けられました。」と言ってくれました。なんだか寂しいような、うれしいような気持ちが入り混じりました。
 5年という月日がさまざまな変化を生み出しています。再建をできた人、まだ造成が終わらず2~3年はかかる人など、それぞれ立場違います。「私は、ここで(仮設)最後までがんばる」という人もいます。
 8月1日には岩手県最大の災害復興住宅への入居が陸前高田市で開始されました。それは「県営栃ヶ沢アパート」です。9階建てと8階建ての2棟301戸が整備されました。河北新報(2016/8/1)によると、「だが、持ち家が中心の市民に高層集合住宅はなじみが薄く、新たなコミュニティづくりや防災対策が課題となっている。アパートは高台の市役所仮庁舎近くに立地する。県大船渡土木センターによると、現段階の入居見込みは206世帯。このうち、一人暮らし高齢者は24.8%に及ぶ」と伝えられています。
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 こうして、まもなく5年と4ヶ月が過ぎようとしていますが、被災者のみなさまはそれぞれの復興への道を歩みつつあります。これからも末永く見守り続けてください。

【東日本大震災】レポートNo.268

あれから5年4ヶ月、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり  7月22日
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今年の「3.11」で、丸5年が経ち6年目を迎えました。それから4ヶ月ぶりの岩手入りです。その間に熊本地震が発生し、少し遅れてやっと岩手に来ることができました。こちらは、田んぼが青々とし、山の緑は深く、清々しい風が降り注いでいます。
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 恒例となった第6回目となる盛岡市にある百貨店川徳での「岩手発 手しごと絆フェア」が7月21日(木)~26日(火)まで開催しています。宣伝の効果もあり、初日、二日目とこれまでの最高の売り上げとなり、作り手さんの笑顔が目に浮かびます。そして、販売には毎年お手伝いに来て下さる盛岡情報ビジネス専門学校の学生さんが大活躍です。みなさん熱心に販売活動をしてくれます。これも会場をお貸し頂いている株式カワトクのみなさんや東京大学被災地支援ネットワークのみなさんのお陰だと心から感謝致します。
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お客さんの中には沿岸に住んでいた被災者の方も多くいます。
「私も釜石の避難所にいたの。みんなぞうさん作っていたけど、作り方を覚えないうちに出ちゃったの。。。」という方がいました。いまではその避難所の跡地に復興住宅が建ち、なんとその住宅には同じ避難所にいて、まけないぞうづくりをしていた人が、1ヶ月前に仮設から引っ越し、そこでまけないぞう作りを続けているのです。これも何かのご縁でしょうか??
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 他にもたくさんの方が来てくださり、たくさんのまけないぞうがお引越ししました。
「大槌で妹が流された。高田にも、大船渡にも知り合いがいる」
「タイでまけないぞう売っていたよ」
「去年も買って真っ黒になっちゃったから、また買っていこう」
「孫に買って行こう」
「顔が違うから迷っちゃう」
「お友だちにプレゼントするから、説明書ください!!」
 明日は最終日です。お近くの方はぜひご来場ください。お待ちしております!

【東日本大震災】レポートNo.267

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月14日
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 被災地では3.11前後はみなさん心が揺れています。もうすでに5年が経過し、被災地の様子は様変わりしています。盛り土が進み、道路がこれまでとは違ったり、行くたびに昔の面影はなくなり、思い出すことも難しいようなまちづくりの整備が行われています。果たしてこれでいいのでしょうか??
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 そんな中で、3.11が間近になると子どもたちの心も揺れます。あの小さな体であんな大きな津波のことをどう受け止めればいいのでしょうか?東京に避難した子どもたちは、3.11が近づくと津波の夢を毎日みるようになるそうです。東京では津波の話もあまりないし、痛みの共有ができないようです。3月11日だけは学校を休んで、家族と祈りの日にしたいと訴えている子もいます。でも3月11日まで気持ちが持たずに、ほぼそれまでの一週間学校を休んだそうです。
 また、当時小学生の孫と津波の後に再会し、無事を確認した後で、その子をその場に残して別の場所へ移動したという人がいました。もちろんそれはやむをえずとった行動でした。けれど、その子は「なんで置いて行かれたのだろう?」とずっと気にしていて、数年後やっとそのことをおじいちゃんに確認し、二人は夜枕を並べながら朝まで当日のことを語り合ったそうです。
 こうして、県外で避難生活をしている子どもたちも心にたくさんの傷を残しながら、生活しています。そして、「3.11」のその日が来るたびにあの日と向き合い、一日、一年心に折り合いをつけていくのでしょう。私たちにできることは、そっと見守るしかできません。被災地にはそんな子どもたちがたくさんいます。子どもに対する心のケアは長期的に必要です。「阪神・淡路大震災では3~4年後にピークを迎えたとの指摘もある。心に深い傷を残すトラウマを放置しておくと症状が悪化し長期的なうつやひきこもりにつながるケースもある」(毎日新聞2016/3/13)と指摘しています。子どもたちが思いっきり外を駆け回り、遊ぶことができるのはいつになるのでしょう。。。。
 
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東日本大震災】レポートNo.266

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月13日
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 いつものようにまけないぞうの回収に行くと、たわいのない話に花が咲きます。ある作り手さんは毎日「こうして今日も一日無事に過ごせた」と感謝の気持ちを込めてお祈りするそうです。そんな話をしているうちに、「あの時は本当に地獄だった。この5年間ぞうさんがなかったら、どうしていたかな。ぞうさんに癒されてここまで5年間やってきたのよ。津波のお陰とは言えないけれど、それでみなさんとこうして出会えたことは感謝しています。」と涙ながらに話してくれました。彼女に最初に会ったのは、震災の年の5月頃で「お父さん(旦那さん)は津波で流されたけれど、うちはまだましよ。すぐに遺体も見つかったし、まだ見つかっていない人もいるから」という言葉を聞いたのが衝撃でした。息子さんも流されているのですが、いまだにまだ息子さんのお話は本人の口から聴いていません。
どんな気持ちでこの5年間過ごしてきたのかと思うと私も涙がこぼれました。
 そして、今年やっとこの5月に復興住宅が完成し、仮設から引っ越す予定です。彼女は仮設で仲の良い3人のぞうさんチームの一人でしたが、他のみなさんが先に自力再建や復興住宅に移ってしまい、不安な日々もありました。1年前に彼女が話してくれたつぶやきです。当時のレポートを一部抜粋して紹介させて頂きます。
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「私、最近鬱かしらと思うの…」と涙をこぼしながら話し出しました。「全て失い、忘れることは絶対できないけれど、こんな辛いことがあったお陰でみなさんにこうして出会い、ぞうさんも作ることができたのよ。過去は変わらないから、前を向いて歩くしかない」と心の底から振り絞って言葉を発していました。取り残されていく孤独感、寂しさをこう話すことで、何とかぎりぎりのところで踏ん張って、いまを生きているように感じてなりませんでした。
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 また、別の作り手さんも高台の造成が今年の夏頃には終わる予定で、来年のお正月には新居で過ごせる予定だそうです。彼女は「孫3人で川の字になって寝るのが夢」と話してくれました。仮設の狭い部屋ではそれがかなわず、孫たちが帰るときにいつも泣くそうです。それが辛くて辛くて5年間も我慢してきたそうです。
一年前の彼女のつぶやきです。
「あの日から4年、復興も思うように進まず、家族が思いもよらない病気をし、気持ちがしずみがちになり、なにもしない日が続いた時、自分がしっかりしないとと思い、ためしにぞうさんを作ってみました。一つまた一つ、そのたびに気持ちが楽になり、がんばれそうな気がしました。本当まけないぞうさんありがとう!」
そして5年経ったいま彼女は「やっと希望が出てきた。故郷に帰るって決めたから、あとは前だけ向いていくしかない」と。その言葉に覚悟を感じました。
「家ができたら、お茶のみでもしましょう」という彼女の希望に満ちた笑顔が晴れ晴れしくもありました。
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 厳しい冬を乗り越え、少しずつ被災者の方たちにも春の足跡が聞こえています。

東日本大震災】レポートNo.265

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月12日
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東日本大震災から5年目を迎えた昨日3月11日は、朝から雪が舞っていました。ある被災者の方が、「亡くなった方の魂が舞い降りてきたのでしょう。だから私は大丈夫忘れてないよ」心の中でつぶやいた途端に晴れ間が広がったそうです。そのような朝を迎え、各地で祈りが捧げられました。
 釜石市の復興住宅の公民館では、被災住民の有志の方が手作りの追悼行事を行っていました。同じ仮設にいた仲間同士、また新しくつながった復興住宅の被災者の人、それを支える被災者の人、みなさんそれぞれの立場で、想いでその場に集まっていました。「追悼式にはなぜか行く気になれなくて、ここに来たの、来てよかった。やっぱり仮設の頃のつながりはいい。今の復興住宅では何もしないもの。」と
 室内には仮設のころのイベントの写真が所狭しと並べられ、みなさん懐かしそうにその写真をみながら、思い出話に話がはずみます。
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 午後2時46分、海の方を向いて、サイレンが鳴り響く被災地で祈りが捧げられました。会場にはみなさんが折った想いが込められた鶴が飾られていました。
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 この追悼式を呼びかけたご夫妻の奥さんは、津波の後にお母さんを失くされています。いまでもそのお母さんの言葉を思い出すそうです。「生きるのは、辛いよ」と。そのお母さんが言った言葉がいつまでも心に残り、仮設や復興住宅で暮らすおばあちゃんたちと母親が重なりほっておけないそうです。少しずつですが、地域の支え合いの芽が育ってきています。この大切な芽が大きくなって、支え合いの街ができたらきっと未来の子どもたちにもつながっていくことでしょう。
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 まけないぞうの作り手さんが、「昔の書類を整理していたら、本当にたくさんの人に支えられたと思ったのよ。これからは少しずつ返していきたい」と話してくれました。そういえば茨城県常総市の被災者の方も「今度どこかで何かあったら、年寄りだけど応援に行く」と言ってくれていました。その前の広島土砂災害の被災者の方は、常総の水害後すぐにたくさんの支援金を下さいました。「被災された方の気持ちがわかるから」と。こうして被災地から被災地へと支え合いの輪が広がっています。
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東日本大震災】レポートNo.264

あれから5年目、岩手県の被災地に入った増島のレポートをお届けします。
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「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月11日
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 今日3月11日で、東日本大震災から5年の月日が流れました。久しぶりに岩手の被災地に足を運び、着いて早々悲しい事件のニュースが飛び込んできました。釜石市の仮設住宅で80代の女性が衰弱死し、一緒に暮らしていた息子も発見時意識はあったが衰弱して動けなかったそうです。3月9日の岩手日報によると「住民によるとアサ子さんは自治会のお茶っこなどで見かけることがあったが、昨夏以降姿を見せなくなった。息子は自治会役員を務めていたが、自治会が事実上休止状態になった1年前から引きこもりがちになった」と報道されています。また同じ日に大船渡市では、県が採用派遣した職員が仮設住宅で自殺のような死を遂げたというニュースがありました。この二人の死は防ぐことはできなかったのでしょうか??こうして、“救えるはずのいのち”が一人、また一人と喪われて行くことに、絶望感すら抱きます。
 長期化する復興の過程で、仮設住宅での生活が10年に及ぶという厳しい現実も突きつけられています。みなさん、もし自分だったら10年間仮設住宅などで暮らさなくてはならない状況をどう感じますか? しかも必死の思いで5年間耐えて来たのですよ!もう言葉を失います。
 そんな状況のなかで、5年を迎えたまけないぞうの作り手さんのところへお邪魔しました。
旦那さんを津波で亡くした陸前高田の作り手さんは、5年前に仮設住宅で出会いました。
陸前高田市で震災の年、まだ仮設の集会所もない中で、ボランティアさんとテントや椅子、机を運んで真夏の炎天下の中、まけないぞうづくりをしました。その時に旦那さんが津波に流され、まるで生気を失ったかのような、Kさんがはじめて作ったピンク色のまけないぞうに5年ぶりに再会しました。涙がこぼれそうなほどうれしかったです。5年間もの間、Kさんに寄り添ってくれていたピンク色のまけないぞうです!当時の彼女のメッセージです「東日本大震災 忘れもできない3月11日2時46分今までにない長い地震、大きい津波 水を飲まされて流された1人です。助けられて生き、いまは仮設生活です。ある日、『お茶飲み会に 来てね』と声をかけられ行ったとき、ピンク色のぞうさんです。とてもかわいい眼をしてリボンをつけていました。何十年前に持った針を持って、先生に教えて 頂き始めました。夢中になり考えることなく作ったのがぞうさんです(主人は死亡)一人生活でも作っている時は楽しいです。上手には出来ないがまけないぞうです」。
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今は自力再建してまけないぞうを作り続けています。当時は「どうしていま私は仮設でぞうさん作っているんだろう」と言われ言葉を失ったこともありました。いまでは、なんとか元気そうにしていますが、やはり「3月11日」が近づくと津波の夢を見るそうです。そして、部屋の出入り口には旦那さんとお孫さんと一緒に移っている写真が飾られています。よく聞くと、「こうして写真を張っておけば、いつか帰って来そうな気がするの。これがあるから生きていられる」と涙ながらに話してくれました。その陰で、津波にあっていない人からは、「いつまでそんなこと言ってんだ」と心ない言葉も浴びせられることがあるそうです。そして「このまけないぞうがなかったらどうなってたか・・・」と。5年という歳月は被災者一人ひとり違うということを痛感させられました。心の復興もそれぞれです。そして中長期のボランティアが激減する中で、冒頭のような悲しい死を防ぐためにも、一人ひとりの被災者に寄り添えるようなボランティアの確保であったり、地域住民の支え合いは欠かせません。私には、今日は多くの涙が被災地を濡らしているように見えます・・・・。
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